マルガレッタは、以前に叔父が買い求めてくれた絵本をゆっくりと捲りながら、本の向こうで彼が己についた汚れを取っている姿を視界に入れていた。
 今月の頭に血が足りなくなって、いよいよ死んでしまうのかと覚悟をしたというのに、今はそれに比べると、なんと平穏でありがたい日々だろう。
 まるで夢みたいだ、とマルガレッタは思った。
 あまり叔父に血を飲む自分を見せたくなくて、必要最小限の血液だけを口にしてきたのだが、叔父から強く勧められて余分の血を摂取したところ、曇り空の下でなら、あの忌々しい太陽の光にも少しだけ耐えられた。

ダーフィットの日記7

 もしかしたら――。
 もしかしたら、叔父は、自分を他の子どものように、昼間に外で遊ばせたいのだろうか。
 そうして、ごく普通の人間の友達を見つけて欲しいのだろうか。
 だが、そこまで劇的な変化を、マルガレッタ自身は強く望んでいるわけではない。
 今のまま、叔父の身の回りの世話を少しずつ覚え、心配をかけることなく彼の傍にいられる現状のままが、彼女にとって一番いいのだが。
 今夜も、叔父が自分のために血を探しに行ったため、一人で帰りを待つ時間がひどく長く感じられて仕方なかった。
 法の側の人間に、捕らえられてないか。
 血をもらう人に、傷つけられていないか。
 心配で心配で、自分が見つかることよりも、叔父が辛い思いをすることの方が怖かった。
 傍らに置いた陶製のカップを掴み、注がれている赤を飲み込む。
 鉄が錆びたような香りのそれは、喉を通るごとにひどく心地良く感じられる。
 ぴちゃん、と叔父が使っている手桶のぬるま湯が跳ねた。
 戻ってくるだろう彼のために、マルガレッタが用意しておいたものである。
 血を拭い終わり、服を着込み始めた叔父を見ていて、つい口が動いた。

「―――おとう、さん」

 あまり普段話すことをしないとはいえ、我ながらずいぶん小さな声だと思った。

「――マルガレッタ。今、『お父さん』って、言ったか?」

 マルガレッタはどうにも気恥ずかしくて、それに返事をすることもせず絵本へ顔を埋めた。
 彼なら、無理に本を引き剥がさずにいてくれるだろう。
 きょうかい、という組織が自分たちを許してくれなくても構わない。
 せめて今みたいな夜は、壊してくれるなと思った。
 半吸血鬼の少女が、聖北の神ではない何者かに祈った、その翌日――。
 旗を掲げる爪の姿は、いつかシシリーが他の町から訪れた小男の死体を見つけた場所にあった。
 無残な姿をした女性の死体が、彼らの前に晒されている。

「こんな……ひどい……」

 ふらついたミカの華奢な身体を、ナイトが後ろから支えている。
 前に見たのと同業らしい女の死体は、ほっそりした首に杭を刺された上、腹を裂かれて内臓を抜かれていた。

「抜くの、手間取ったんだろうな。……ひどい有様だ」
「……ちょっと、ごめんね」
「アン?」

 乾いた血でかさついた地面をなるべく踏まないよう、注意深く死体に近づいたアンジェは、しげしげと目を剥き出した顔を見つめた後、ひょいとスカートを捲って脚を確認した。
 赤くトゲトゲした薊の意匠をした刺青が、かつては自慢だったろう滑らかな太ももに描かれている。

「間違いない、この刺青、『薊姫』のお姐さんだよ」
「あざみひめ?」
「あたしから姉ちゃんに言うの、さすがにちょっと恥ずかしいんだけど……あのね、盗賊ギルドの上層部御用達の娼館だよ」

 容姿だけに留まらず、話術や芸に秀でた一流の娼妓を集めた館は、ごく一握りの人間しか入り口を知らないところにある。
 盗賊ギルドの上層部ともなれば、恨まれる筋が十や二十ではきかない。
 その上、美女と情事に耽る時ほど男が油断しやすい時はないので、『薊姫』は厳しい警備と口の堅さに関しては折り紙つきの施設なのだ。
 そこまで言って口を閉じたアンジェが、難しい顔になって考え込む。

「……そこのお姐さんが何で、こんな所で死んでるの?」
「何だよ、アン。俺たちが調べた中にも、娼婦の被害者はいただろう?」
「いや、でもさ。『薊姫』みたいな高級娼館ともなれば、出入り自由ってわけがないし、そもそもギルドが逃がすはず……」

 ふと、ある一つの可能性に思い当たる。

ダーフィットの日記8

「……間に合わなかった?」
「アンジェさん……?」
「ごめん、ミカ。あたし、ギルドに顔を出してくる。……ここを、頼んだよ」

 事情を全部察したわけではないものの、篭められた決意は感じ取ったのだろう。
 シシリーは踵を返そうとしたアンジェの手を、ぎゅっと握って言った。

「……気をつけて」
「うん、気をつける。必ず戻るよ。≪狼の隠れ家≫へね」

 そして急いで駆けた先で、アンジェは懸念が的中していたことを知らされた。
 例の、茶色い髪を束ねた構成員を捕まえ、銀貨の入った小袋を渡しつつ尋ねる。

「殺されたのは、『薊姫』の娼婦だね?」
「ああ……なかなかの上玉だったらしいな。殺されちまうなんて、なんてかわいそうなんだろう」

 なあ?と、こちらの同意を求めるさり気ない様子に、アンジェは一つ言葉の投石を行なってみた。

「『剪伐』は見つかったの?早く見つけないと、またこんな殺人が起こるよ」
「さあ?俺は聞いてないなあ……」
「ふーん……もう聞くこともないね。あたし、帰るわ」
「おう」

 つまり、ギルドは二つのことを行なったのだ。
 『剪伐』の確保。
 『薊姫』の娼婦殺害の手引き。
 ギルド上層部が贔屓している店の人間が死ぬ手引きをしたということは、ギルドの統括者か、それにごく近い人間が事件について絡んでいるということである。
 リューンでも有数の冒険者の実力がついたアンジェといえども、別にギルドで高い地位にいるわけではない。
 かえって、そんな地位についていると自由に冒険に出るわけにはいかないから、情報を得たり操作したり等の必要がある時だけ相応よりちょっと高い代金を支払って利用し、後はなるべく盗賊ギルドとはつかず離れずのスタンスを絶妙に保っていたのだが。

(こりゃ、まずいよね。あの情報屋さんにはお世話になってるけど、ギルドそのものとなると……。さて、どこまで対抗可能なんだか。)

 今回の件については、ギルドは敵側にいると明らかになったわけである。
 組織というものが牙をむいた時の恐ろしさを、これまでの冒険によって嫌というほど承知しているアンジェには、まったくもってありがたくないことだった。
 だからこそ、急いで解決しようと思っていたというのに、これは明らかな自分の失態である。

(……先を越されたね……これから、どう動いたものかなぁ……)

 とりあえず、今回の依頼を終わらせた後に工作の必要があるな、とアンジェは判断した。
 こちらの仕事を妨害する尾行者の姿がないことを確認した上で、常宿へと戻る。
 だが果たして、その報告を聞いたウィルバーは、あからさまな落胆の色も見せず言った。

「こちらからは朗報です。この、杭」

 ごとり、とナイトの手によって、死体から直接抜き取って貰った杭を示した。
 骨ばった指が、目には見えない、ある一定の術式によって杭に刻まれた古代魔術の文字をなぞる。

「一見普通の杭ですが、れっきとした魔術具です」
「こんな物が!?へえ……」
「賢者の塔に問い合わせれば、きっと尻尾を掴めます。つまり、搭を巻き込んで後ろ盾になって貰いましょう、ってことです。こっちのバックアップが治安隊だけでは、さすがに不安ですからね」
「なるほど、それでギルドに対抗しようってことなんだね」

 さすがにパーティの頭脳役といったところか。
 感心したアンジェはしきりに頷き、安堵の息をついた。
 顎に左手をかけていたシシリーが、ポツリと呟く。

「ようやく……背中が、見えてきたわね」

 彼女の言うそれが、犯人のものであるのは明らかだった。

2017/01/12 12:33 [edit]

category: ダーフィットの日記(合間の手袋の話と年末の冒険者達)

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