Mon.
ねことぼうけんしゃとその1 
日差しがまだ暖かい時刻―――≪狼の隠れ家≫のある通り。
喧騒は多くはなかった。
この辺りで騒動を起こそうとすれば、たちまち≪狼の隠れ家≫に所属する英雄クラスの冒険者たちが、鎮圧にやってくることをリューンのチンピラはよく弁えている。
おまけに、少し前にはあの宿へ窃盗に入ろうとしたこそ泥たちが、石化して治安隊に引き渡されたという事実もあったことが大きいだろう。
リズミカルに石畳の道を歩む足音だけがする。

喧騒は多くはなかった。
この辺りで騒動を起こそうとすれば、たちまち≪狼の隠れ家≫に所属する英雄クラスの冒険者たちが、鎮圧にやってくることをリューンのチンピラはよく弁えている。
おまけに、少し前にはあの宿へ窃盗に入ろうとしたこそ泥たちが、石化して治安隊に引き渡されたという事実もあったことが大きいだろう。
リズミカルに石畳の道を歩む足音だけがする。

「……ん?」
それはウィルバーが、先の依頼で殺害した元冒険者の最期を、彼の所属していた冒険者の店に伝えた帰り道のことだった。
それとなく周りを観察しながら歩いていた彼は、人気のない路地の奥に、よく見慣れた小さな背中を見つけたのである。
「………?」
首を傾げたあと思わずその場に立ち止まり、何をしているのだろうかと観察を続ける。
ホビットの娘がじりり、じりりと摺り足で進もうとする姿は、正直に言って不審の一言に尽きた。
奥に何か、いるのだろうか。
そう検討をつけたウィルバーは、出来るだけ気づかれないようにそっとアンジェの背後に忍び寄る。
「……猫ですか」
「ぃっ!?」
思わず零れた言葉に驚いたのか、アンジェの後ろ頭がひょっと飛びはねる。
「!?」
それに一拍遅れ、アンジェと見つめ合っていたらしい猫もぴょんと飛び上がり、そのまま奥へと駆けて行ってしまった。
「……おっちゃん」
黒猫の去りゆく姿を見送っていると、魔術師は常より低い声に名を呼ばれた。
下ろした視界に映っているアンジェは、じとり据わった目をしているものの、怖いものではない。
俗に、目は心の窓と呼ばれている。
その窓に見えるのは、『君のせいで逃げられてしまった』というちょっとした恨みがましさと逃げられてしまったことそのものに対する寂しさであった。
「……すみません。邪魔しました?」
「………」
そろりと視線を外したアンジェは、再び路地の奥へと目を向ける。
……焦がれているようなその雰囲気に、テアではないが、少しばかりの老婆心が働いた。
「あなた、あの猫に触りたいのですか?」
「うん!」
くるりとウィルバーを振り向いたアンジェは、何かいい方法はある?とでも言い出しかねない瞳の輝きを宿している。
思わず彼は吹き出してしまった。
それにも構わず、ひたすらアンジェはどんぐり眼をひたとウィルバーに定めている。
「でしたら、あの猫と友達になりませんと」
「友達?猫と?」
今ひとつ納得しかねる様子のアンジェが、困ったように眉毛を八の字に落としたのを見て、
「そう、友達。仲の良くない相手に触れられるのは、あなただって嫌でしょう?」
とウィルバーは諭した。
「……そっか。そっかあ…」
茶色いどんぐり眼が、彼の言葉の意味を解して瞬いた。
しかし、どうすればいいのかという具体的な案までは分からないようで、またもとの困り顔に戻っている。
ぷう、とむくれた頬が膨れている。
「どうやって?」
「ふむ。そうですねえ…」
考える為に黙り込んだウィルバーを見て、ホビットの娘はおずおずと口を開いた。
「やっぱり、餌とか?」
「……手っ取り早く、ならそれでもいいですが、あまりお勧めはしませんよ」
「なんで?」
「冒険者と依頼人みたいなものですよ」
「え?」
「つまり、私たち冒険者は依頼人に報酬を貰って、それを対価に仕事をする。餌で懐かせた猫は『餌を報酬に撫でさせる』と覚えますから、餌がないと分かればすぐに何処かへ行ってしまうのですよ」

「……だったら、どうすればいいの?」
いくらストレスに強いリアリストなアンジェといえど、何の斟酌もない猫相手にそんなビジネスライクの関係を構築するのは嫌だったらしく、眉尻のすっかり下がった顔を見せている。
その常にない幼い様子にウィルバーの口元も緩んだが、もうそろそろ怒られそうなので、咳払いの一つで誤魔化しを図った。
「時間はかかるでしょうけれど……まずは、相手の縄張りにいることを許してもらわないと」
「縄張り?」
「ええ。猫は縄張りに煩いもので…自分以外の猫がいると大抵追い払ったり、敵わないと見れば姿を隠したりするのです」
「今みたいにあたしから逃げたのも、そうなの?」
「ええ。不躾にじろじろ見てきた相手が急に近づいてきたら、あなただって警戒するでしょう?」
「………」
アンジェは心当たりがあったようで、納得すると同時に、それを自分が猫に対してやってしまったかと少し落ち込んでしまった。
大きなペン胼胝のある手が、ぽんぽん、と彼女のちょっと変わったお団子に結った頭を撫でる。
温かな感触にアンジェは目を細めた。
「だからできるだけ、目線を合わせないようにしながら距離を詰めなければ」
「それ、難しくない?」
「……できますよ。アンジェが本当に、あの猫と仲良くなりたいのなら」
今まで語った彼のアドバイスは、実を言うと全てロンドに教えられたものである。
犬はどんな小さいものでも好かない彼も猫なら平気らしく、結構以前にパーティから逃げ出したテーゼンを追いかけて旅をしていた時、ある街で小さな黒猫と仲良しになったことがある。
その時のことを回想していたテーゼンが、どうやってあんなに猫と親しくしてたのかと問い、ロンドが細かく猫と距離を近づけるコツを、男部屋で説明していたことがあったのだ。
他者からの意見にアンジェは少々考え込んでいた様子だったが、覚悟を決めたらしく、小さな頭が助言者に向かって一度頷いて見せた。
「はい。……今日はもう、隠れてしまったみたいですね」
「そうだね…」
「如何します?宿に戻りますか?」
「……うん。そういえばおっちゃん、どこにいってたの?」
「こないだの依頼の後始末ですよ。依頼人の報告は済ませましたが、もう1人、報告をしたほうが良いと私が思っていた相手がいたものですから」
「ふーん…」
とことことついていくる足音――常ならば盗賊らしく静かに歩くので、これはわざと出しているのだろう――を背に路地を抜け、宿への扉に手を掛ける。
このところ、ちょっとばかり陰鬱な依頼が多いせいで少々精神的な負担も多かったが、今日の出来事はなかなか面白いことになったかもしれない。
そう思いながら、彼はアンジェが戸を潜るのを待ち――2人は宿に戻った。
そしてその翌日。
≪狼の隠れ家≫の裏にて、黒猫をまた見つけたアンジェの姿がある。
(いた!……これ以上近づくと逃げる……よね)
ウィルバーからアドバイスを受ける前の数日前の奮闘により、どこまで近づけば猫が逃げるのか、という距離については把握済みである。
彼女は昨日の助言を思い出し、必死で自分に言い聞かせた。
(猫を見つめない……)
ホビットという種族的な身体能力と、盗賊という後天的な経験の赦す限りで、この年の子供にしてはびっくりするほど静かにその場へ座り込む。
この小さな路地は人の滅多に通らない道なので、彼女たちが邪魔になることはないだろう。
「……(ちらっ)」
サッと目を逸らす。
猫は座り込んだまま、昨日出会った人物をじっと見ていた。
(見ちゃダメだ………でも、見たい)
ピンと尖った三角耳に、ふくふくと繁ったいかにも触り心地の良さそうな毛並み。
『気長にやることですよ』
というウィルバーの言葉が脳裏に浮かぶ。
いつかぜったい触ってやる!と、アンジェは密かに拳を握り締めた。
努めて意識を他へ向けて、なるたけ猫を刺激しないようにしていると――やがて猫は、その場に転がって毛繕いを始めた。
アンジェを特には気に留めていないようだ。
息を詰め、細心の注意を払ってほんの僅か移動する。
ちらっと視線を走らせると、猫は毛繕いを止めてちょこんと座り込んでいる。
意識をちょっと冒険者へ向けているようだ。
さらにその場に待機しようと思って足を止めると、
「……アンジェ」
と急に声を掛けられた。
跳ねた頭でとっさに振り向く。

薄日の差す路地の入り口に、壁に凭れて微笑むウィルバーの姿があった。
昨日と同じ光景に少しの既視感を覚えたアンジェは、それを振り払いながら何の用かとよく知る仲間を見つめた。
「宿の娘さんから旗を掲げる爪に差し入れを貰いまして……あなたの好みそうな菓子です」
「!」
「早めに戻らないと、他のメンバーに全て食べられてしまいますよ」
娘さんの作る菓子の美味しさは、あの宿にやって来たばかりの時に、ハロウィン用の試作品でもって証明済みである。
狼狽したような表情に変わったが、相変わらず音は出さず、首をめぐらせて路地の奥に視線を投げる。
猫は2人の会話を聞いているのかいないのか、顔をこちらへ向けて様子を窺っている。
ウィルバーは深く静かな声で彼女に告げた。
「……また明日、ですよ」
「……ん」
呼びに来た冒険者について表通りに出る手前、アンジェは立ち止まり振り返った。
「……またね」
いかにも惜しそうなその呟きをうっかり聞きつけてしまったウィルバーは、扉を子供のために押さえつつ、心の中でエールを送った。
それから暫く経ったある日の夕方――≪狼の隠れ家≫のある通りで、今度は昔の依頼で手に入れた品を幾ばくかの銀貨に化けさせたウィルバーが、最近見慣れてきた光景を路地裏に見つけた。
新緑と同じ色の衣服に包まれた、小さな背中。
その近くには、ちょこんと座り込んだ黒猫の姿がある。
ウィルバーは壁際に体を寄せ、一人と一匹の様子を観察した。
大分近くまで寄れるようになったらしい、と見て取ったが、触れさせる、とまではいかないようで、子供らしくまるまっちい手が猫の背に伸びると、猫は嚆矢のごとく路地の奥へ走り去ってしまった。
肩を落とした姿がなんとも物悲しい。
「アンジェ」
「なんでいるの、おっちゃん!?」
「偶然通りかかったんですよ」
アンジェはばつの悪そうな色をして、仲間へ近づいてきた。
「大分、距離を詰められたみたいですね」

「……うん。でも、まだ触らせてれくないんだ」
路地裏の小さな攻防も、ウィルバーが見ないうちに進んでいたようである。
道程の長さがもどかしいのだろう、通常なら苦もなく錠前や罠を解除してくれるはずの手を握っては開いて、しごく落ち着きがない。
ウィルバーは人差し指だけをピッと立てて、彼女に提案をしてみた。
「それでしたら、一緒に玩具で遊んでみたらどうです?」
「おもちゃ?」
「ええ。今ならのってくれるかもしれませんよ」
「……それ、自分で作れる?」
「ん?まあ、そうですね……作ってもいいですが、そこらへんに生えている狗尾草で十分だと思いますよ」
「エノコロ……」
「一緒に取りにいきますか?」
「うん」
近くの空き地に生えていただろうと、記憶の糸を辿りつつ踵を返すと、隣に並ぶ慣れた気配があった。
猫を懐かせるアンジェも、わりと自分に懐いたのではないだろうかとウィルバーは思った。
面識がある分、初めて引き合わされた人間よりも距離の近い仲間であったが、やはり四六時中一緒にいて家族のように交流しているロンドやシシリーに比べると、ウィルバーと親密とまでは言えない。
だが、今回ばかりはそれなりに――珍しく自分が優位なように距離を詰めたような気がする。
何となくそれが嬉しくて、我知らずウィルバーの口が微笑みの形を作っていた。
風に揺らぐ狗尾草をあたりが暗くなってしまう前に摘んだ2人は、まるで親子のように連れ立って宿への帰路についた。
それはウィルバーが、先の依頼で殺害した元冒険者の最期を、彼の所属していた冒険者の店に伝えた帰り道のことだった。
それとなく周りを観察しながら歩いていた彼は、人気のない路地の奥に、よく見慣れた小さな背中を見つけたのである。
「………?」
首を傾げたあと思わずその場に立ち止まり、何をしているのだろうかと観察を続ける。
ホビットの娘がじりり、じりりと摺り足で進もうとする姿は、正直に言って不審の一言に尽きた。
奥に何か、いるのだろうか。
そう検討をつけたウィルバーは、出来るだけ気づかれないようにそっとアンジェの背後に忍び寄る。
「……猫ですか」
「ぃっ!?」
思わず零れた言葉に驚いたのか、アンジェの後ろ頭がひょっと飛びはねる。
「!?」
それに一拍遅れ、アンジェと見つめ合っていたらしい猫もぴょんと飛び上がり、そのまま奥へと駆けて行ってしまった。
「……おっちゃん」
黒猫の去りゆく姿を見送っていると、魔術師は常より低い声に名を呼ばれた。
下ろした視界に映っているアンジェは、じとり据わった目をしているものの、怖いものではない。
俗に、目は心の窓と呼ばれている。
その窓に見えるのは、『君のせいで逃げられてしまった』というちょっとした恨みがましさと逃げられてしまったことそのものに対する寂しさであった。
「……すみません。邪魔しました?」
「………」
そろりと視線を外したアンジェは、再び路地の奥へと目を向ける。
……焦がれているようなその雰囲気に、テアではないが、少しばかりの老婆心が働いた。
「あなた、あの猫に触りたいのですか?」
「うん!」
くるりとウィルバーを振り向いたアンジェは、何かいい方法はある?とでも言い出しかねない瞳の輝きを宿している。
思わず彼は吹き出してしまった。
それにも構わず、ひたすらアンジェはどんぐり眼をひたとウィルバーに定めている。
「でしたら、あの猫と友達になりませんと」
「友達?猫と?」
今ひとつ納得しかねる様子のアンジェが、困ったように眉毛を八の字に落としたのを見て、
「そう、友達。仲の良くない相手に触れられるのは、あなただって嫌でしょう?」
とウィルバーは諭した。
「……そっか。そっかあ…」
茶色いどんぐり眼が、彼の言葉の意味を解して瞬いた。
しかし、どうすればいいのかという具体的な案までは分からないようで、またもとの困り顔に戻っている。
ぷう、とむくれた頬が膨れている。
「どうやって?」
「ふむ。そうですねえ…」
考える為に黙り込んだウィルバーを見て、ホビットの娘はおずおずと口を開いた。
「やっぱり、餌とか?」
「……手っ取り早く、ならそれでもいいですが、あまりお勧めはしませんよ」
「なんで?」
「冒険者と依頼人みたいなものですよ」
「え?」
「つまり、私たち冒険者は依頼人に報酬を貰って、それを対価に仕事をする。餌で懐かせた猫は『餌を報酬に撫でさせる』と覚えますから、餌がないと分かればすぐに何処かへ行ってしまうのですよ」

「……だったら、どうすればいいの?」
いくらストレスに強いリアリストなアンジェといえど、何の斟酌もない猫相手にそんなビジネスライクの関係を構築するのは嫌だったらしく、眉尻のすっかり下がった顔を見せている。
その常にない幼い様子にウィルバーの口元も緩んだが、もうそろそろ怒られそうなので、咳払いの一つで誤魔化しを図った。
「時間はかかるでしょうけれど……まずは、相手の縄張りにいることを許してもらわないと」
「縄張り?」
「ええ。猫は縄張りに煩いもので…自分以外の猫がいると大抵追い払ったり、敵わないと見れば姿を隠したりするのです」
「今みたいにあたしから逃げたのも、そうなの?」
「ええ。不躾にじろじろ見てきた相手が急に近づいてきたら、あなただって警戒するでしょう?」
「………」
アンジェは心当たりがあったようで、納得すると同時に、それを自分が猫に対してやってしまったかと少し落ち込んでしまった。
大きなペン胼胝のある手が、ぽんぽん、と彼女のちょっと変わったお団子に結った頭を撫でる。
温かな感触にアンジェは目を細めた。
「だからできるだけ、目線を合わせないようにしながら距離を詰めなければ」
「それ、難しくない?」
「……できますよ。アンジェが本当に、あの猫と仲良くなりたいのなら」
今まで語った彼のアドバイスは、実を言うと全てロンドに教えられたものである。
犬はどんな小さいものでも好かない彼も猫なら平気らしく、結構以前にパーティから逃げ出したテーゼンを追いかけて旅をしていた時、ある街で小さな黒猫と仲良しになったことがある。
その時のことを回想していたテーゼンが、どうやってあんなに猫と親しくしてたのかと問い、ロンドが細かく猫と距離を近づけるコツを、男部屋で説明していたことがあったのだ。
他者からの意見にアンジェは少々考え込んでいた様子だったが、覚悟を決めたらしく、小さな頭が助言者に向かって一度頷いて見せた。
「はい。……今日はもう、隠れてしまったみたいですね」
「そうだね…」
「如何します?宿に戻りますか?」
「……うん。そういえばおっちゃん、どこにいってたの?」
「こないだの依頼の後始末ですよ。依頼人の報告は済ませましたが、もう1人、報告をしたほうが良いと私が思っていた相手がいたものですから」
「ふーん…」
とことことついていくる足音――常ならば盗賊らしく静かに歩くので、これはわざと出しているのだろう――を背に路地を抜け、宿への扉に手を掛ける。
このところ、ちょっとばかり陰鬱な依頼が多いせいで少々精神的な負担も多かったが、今日の出来事はなかなか面白いことになったかもしれない。
そう思いながら、彼はアンジェが戸を潜るのを待ち――2人は宿に戻った。
そしてその翌日。
≪狼の隠れ家≫の裏にて、黒猫をまた見つけたアンジェの姿がある。
(いた!……これ以上近づくと逃げる……よね)
ウィルバーからアドバイスを受ける前の数日前の奮闘により、どこまで近づけば猫が逃げるのか、という距離については把握済みである。
彼女は昨日の助言を思い出し、必死で自分に言い聞かせた。
(猫を見つめない……)
ホビットという種族的な身体能力と、盗賊という後天的な経験の赦す限りで、この年の子供にしてはびっくりするほど静かにその場へ座り込む。
この小さな路地は人の滅多に通らない道なので、彼女たちが邪魔になることはないだろう。
「……(ちらっ)」
サッと目を逸らす。
猫は座り込んだまま、昨日出会った人物をじっと見ていた。
(見ちゃダメだ………でも、見たい)
ピンと尖った三角耳に、ふくふくと繁ったいかにも触り心地の良さそうな毛並み。
『気長にやることですよ』
というウィルバーの言葉が脳裏に浮かぶ。
いつかぜったい触ってやる!と、アンジェは密かに拳を握り締めた。
努めて意識を他へ向けて、なるたけ猫を刺激しないようにしていると――やがて猫は、その場に転がって毛繕いを始めた。
アンジェを特には気に留めていないようだ。
息を詰め、細心の注意を払ってほんの僅か移動する。
ちらっと視線を走らせると、猫は毛繕いを止めてちょこんと座り込んでいる。
意識をちょっと冒険者へ向けているようだ。
さらにその場に待機しようと思って足を止めると、
「……アンジェ」
と急に声を掛けられた。
跳ねた頭でとっさに振り向く。

薄日の差す路地の入り口に、壁に凭れて微笑むウィルバーの姿があった。
昨日と同じ光景に少しの既視感を覚えたアンジェは、それを振り払いながら何の用かとよく知る仲間を見つめた。
「宿の娘さんから旗を掲げる爪に差し入れを貰いまして……あなたの好みそうな菓子です」
「!」
「早めに戻らないと、他のメンバーに全て食べられてしまいますよ」
娘さんの作る菓子の美味しさは、あの宿にやって来たばかりの時に、ハロウィン用の試作品でもって証明済みである。
狼狽したような表情に変わったが、相変わらず音は出さず、首をめぐらせて路地の奥に視線を投げる。
猫は2人の会話を聞いているのかいないのか、顔をこちらへ向けて様子を窺っている。
ウィルバーは深く静かな声で彼女に告げた。
「……また明日、ですよ」
「……ん」
呼びに来た冒険者について表通りに出る手前、アンジェは立ち止まり振り返った。
「……またね」
いかにも惜しそうなその呟きをうっかり聞きつけてしまったウィルバーは、扉を子供のために押さえつつ、心の中でエールを送った。
それから暫く経ったある日の夕方――≪狼の隠れ家≫のある通りで、今度は昔の依頼で手に入れた品を幾ばくかの銀貨に化けさせたウィルバーが、最近見慣れてきた光景を路地裏に見つけた。
新緑と同じ色の衣服に包まれた、小さな背中。
その近くには、ちょこんと座り込んだ黒猫の姿がある。
ウィルバーは壁際に体を寄せ、一人と一匹の様子を観察した。
大分近くまで寄れるようになったらしい、と見て取ったが、触れさせる、とまではいかないようで、子供らしくまるまっちい手が猫の背に伸びると、猫は嚆矢のごとく路地の奥へ走り去ってしまった。
肩を落とした姿がなんとも物悲しい。
「アンジェ」
「なんでいるの、おっちゃん!?」
「偶然通りかかったんですよ」
アンジェはばつの悪そうな色をして、仲間へ近づいてきた。
「大分、距離を詰められたみたいですね」

「……うん。でも、まだ触らせてれくないんだ」
路地裏の小さな攻防も、ウィルバーが見ないうちに進んでいたようである。
道程の長さがもどかしいのだろう、通常なら苦もなく錠前や罠を解除してくれるはずの手を握っては開いて、しごく落ち着きがない。
ウィルバーは人差し指だけをピッと立てて、彼女に提案をしてみた。
「それでしたら、一緒に玩具で遊んでみたらどうです?」
「おもちゃ?」
「ええ。今ならのってくれるかもしれませんよ」
「……それ、自分で作れる?」
「ん?まあ、そうですね……作ってもいいですが、そこらへんに生えている狗尾草で十分だと思いますよ」
「エノコロ……」
「一緒に取りにいきますか?」
「うん」
近くの空き地に生えていただろうと、記憶の糸を辿りつつ踵を返すと、隣に並ぶ慣れた気配があった。
猫を懐かせるアンジェも、わりと自分に懐いたのではないだろうかとウィルバーは思った。
面識がある分、初めて引き合わされた人間よりも距離の近い仲間であったが、やはり四六時中一緒にいて家族のように交流しているロンドやシシリーに比べると、ウィルバーと親密とまでは言えない。
だが、今回ばかりはそれなりに――珍しく自分が優位なように距離を詰めたような気がする。
何となくそれが嬉しくて、我知らずウィルバーの口が微笑みの形を作っていた。
風に揺らぐ狗尾草をあたりが暗くなってしまう前に摘んだ2人は、まるで親子のように連れ立って宿への帰路についた。
2016/05/02 11:50 [edit]
category: ねことぼうけんしゃと
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